19年前の今日

1998年3月28日。一人の中国人青年が上海からの飛行機で成田に降り立った・・・。

もう19年になるのか~。道理で私たちも歳取ったもんだ。笑

19年前、北京や上海でなくマイナー内陸都市からの中国人にとって日本留学というのは一大事。

実家で家族と涙涙の別れをし、母お手製の餃子を食べ、留学の成功を祈ってご先祖様に紙のお金を燃やしたそうです。

そして夜の夜行列車に乗って上海へ。当時は高鉄ないですから、8時間かけて夜行で上海へ行きます。上海で親戚の家に一泊。親戚の家から実家に電話をかけて母親の声を聞いたら胸がいっぱいになって手短に切ったそうです。

翌日の午前の便で虹橋空港から成田へ。当時浦東空港はまだできてなかったんですって!

空港には以前勤務していた会社の日本人社員が阿財を迎えに来てくれてました。留学時代、阿財を支えてくれたお兄さんのような存在の人です。留学先の大学の学生課と事前にやり取りし、大学にほど近い家賃24,000円のアパートまで阿財を送り、彼は自宅のある大阪へ帰りました。

家具がついていない日本のアパート。布団もないので初日はコートを被って寝たそうです。

日本に来て3日目からアルバイト探しを開始。中華料理店でバイトを始めるも、バイト3回目でクビ。それからまた中華料理店でバイト。日本料理店はメニュー名が難しいから無理そうなので中華料理店を選んでたそうです。中国から持ってきた所持金は1,000ドル。家賃の支払いでかなり遣ってしまったので、とにかくアルバイトをして学費&生活費を稼がないとと必死だったそうです。

バイト掛け持ちは当たり前。時給がいいバイトの張り紙を見つけ、電話して面接に行った先はパチンコ屋だったり。英会話塾の講師のアルバイトをしようとアポなしで入ったら英会話を習いに来たと思われ英会話のテストを受ける羽目になったり。違いますと言えなかったって。

大学の入学式では中国人グループを見つけ、しかもその中の一人が山東省の人だと分かって嬉しくてついて回ったら疎まれたとか。台湾人の留学生がいて、「あなたは中国人ですか?」と話しかけたら「私は中国人ではない。台湾人だ。」と言われ、台湾人とほぼ初めて話した阿財、「え?」とびっくりして何も言えなくなったとか。香港人の留学生友達は日本語が話せなくてなかなかいいアルバイトが見つからず、ヒマなので阿財の家に来ては美味しいチャーハンを作ってくれたそうで。

あの頃の話を聞くと、阿財の日本留学、たくさんの夢と希望があったんだなーと感じます。

そして留学先で出会った恩師。一人の恩師は阿財を気に入ってくれて一年分の学費を払ってくれました。学生時代、卒業して私と結婚してからもずっとひと月かふた月に一回は会っていて、先に恩師が亡くなり、それ以降は旦那さんと交流が続き・・・その旦那さんも2年前に亡くなりました。訃報を知った時、私はちょうど外にいたのですが、路上で涙が止まりませんでした。阿財と恩師の旦那さんは、亡くなる2日前までメールのやり取りをしていました。

きちっとしていた人でいつも「いつ妻の元へ行ってもいいように」と身辺整理を済ませ、何かあった際の連絡担当者や連絡先のリストアップもしてありました。私たちが中国に引っ越して以降、会う回数は減りましたが、六斤の成長を楽しみにしてくれ、六斤の誕生日には娘さんと一緒にプレゼントとカードを贈ってくれました。頂いたカードは全てとってあります。私たちが一時帰国で東京へ行く際には真っ先に連絡して会っていました。阿財にとっては日本の父・母といっても過言でない人です。

阿財はこの恩師夫婦のような夫婦になる事が理想だと思っていて。本当に素晴らしい二人は私たちの素晴らしい目標です。一歩でも、半歩でも近づけるようになりたいといつも思っています。

週末ワインを飲んだ時に使ったペアグラスは恩師夫妻からの結婚の贈り物。気づかずに一つ少し飲み口を欠けさせてしまいましたが使い続けます。使うたびに恩師夫婦を思い出し、「私たちはしっかりしているか?努力を続けているか?」と自問自答します。留学時代の友人は続々と帰国し、恩師・恩師の旦那さんが阿財の留学生時代からの交流する数少ない人になっていました。恩師夫妻との思い出はありすぎて、阿財としみじみ思い出してはポツポツ話しています。

恩師旦那さんが自慢げに冗談ぽく言っていたのが「自分が阿財と阿信さんを引き合わせたんだ」と。当時二つの学校に合格した阿財。どちらに行けばよいのか恩師夫妻に相談したところ、「〇〇がいい」と。そこが私と阿財が出会った学校。私たちは同学だったんです。正直、研究者の道に入るならもう一つの学校の方が有利だと思うのですが、そのアドバイスで阿財が私と同じ学校に来ました。

私と出会ったときの阿財は留学生活もひと通り慣れた感じで、東京・駒場の留学生会館に住んでいました。学費の援助を実家から一切もらっていないのでアルバイトは3つくらい掛け持ちでやっていて、丸の内の研究所での研究員のアシスタント、スーパーの深夜レジ、それと臨時で会議通訳や中国からの人員の通訳&アテンドをしたりしていました。

私と付き合うきっかけは日中国際結婚で星の数ほど聞いている「語学の相互学習」。私もこれにやられました。しかも阿財、既に新聞社の国際会議通訳のアルバイトもする程の日本語能力であった高い日本語能力を隠し、わざと私に「この日本語はどうしてこうなるのですか?」と質問メールをこれまた熱心に毎日毎日送ってきたんですよ!後で聞いたら「知らないふりして送った」と。あたしゃ超マジメに返信してましたよ!

私と付き合うことになって、しかも私がその数か月後に留学へ行くものだから阿財焦って私と会う時間を取ってばかりでバイト先にもかなり迷惑をかけたとか、後で言ってました。笑 私が留学に言った後で必死で挽回したそうです。

これまで色んな事があって。それもこれもすべてこの19年前の留学が始まり。阿財が留学を決心しなければ私とも出会わないし、六斤、豆豆も産まれてこない・・・めぐり合わせって本当に色んな偶然のつながりで不思議だなと思います。

↑これを見て運命を変えると決意したという日本のビザ。山東には当時日本領事館はなく(今は青島にあり)、北京で発行してもらったもの。

来年は20年。節目の年です。来年のこの日はちゃんとお祝いしよう~。だって今日から阿財は出張なもんで^^;また虹橋空港発の便で出張です。在りし日の阿財青年も今や日中両国、中国各地を駆け巡る日系勤務のいちサラリーマン。もう、私「日本のサラリーマン道を極めた中国人のアナタ、本を書いて!絶対儲かる!」といつも言っているのですがそんなヒマ到底ないそうで・・・お疲れ様です。