2011年12月17日。六斤を連れて降り立った上海。
この日は金曜日で、仕事を早退した阿財が迎えに来てくれてました。
もうとにかくクタクタ。一か月ほど前に阿財が上海に一足お先に赴任したため、最後の残務は全て私一人でしたので。
阿財には「任せといて~」とかるーく言ったものの、意外と色々あって大変でした。楽観的なのが裏目に出ちゃいました。ほんと、よく考えれば無理無理でしたわ。
「会社初の中国人駐在員。帯同家族は日本人」という阿財の会社前代未聞のケースの為に、総務の手続きが遅れに遅れ、阿財は11月に上海に赴任するも、私と六斤の出発日は12月入っても決まっていませんでした。結局、会社がチケットを取ったのは出発日まで10日切ってましたよ。
なつかしいね~。上海出発前日のブログ。

目次
家族が上海に来た翌日から出勤した阿財
私たちが着いた翌日、阿財は7時前に家を出て、会社へ。
ええ?家族が上海来た翌日に出社?土曜なのに?
ブラックやわぁ・・・と思ったのは言うまでもない! 笑
あれから6年経ちました。
途中広州に1年半住んだので、上海生活は4年半になります。
あれ?まだトータル4年半??
と思えるほど中身の濃い生活を送っている気がします。気持ちでは20年くらい住んだ感じ。
色んな経験させてもらいました。面白い物たくさん見せてもらいました。
ほんとね、ここの生活って油断ならない。槇原敬之さんの歌にもあるでしょ
♪こ~れからも僕を油断させないで by冬が始まるよ
って。
私、何かトラブルが終わるたびにこのフレーズが思い出されて、「また来るぞ・・・」って気を引き締めてます。で、実際に起こるんですよねーこれが。
だから面白いんです!生きてるって感じします。
中国生活6年を思い起こしてみる
なんか年末みたいな展開ですけれど、阿信家のこの6年間を振り返ります。
阿財がんばってる!
一家の大黒柱の阿財。この人なくしては私の中国生活は語れない。
第一阿財が中国へ帰国したいと言わなければこんなことにならなかった・・・というのは冗談。
「中国へ帰国したい」と言われたとき、私の気持ちはワクワクでした。笑
とにかく未知のものに惹かれる性分なもんで。それでなくても中国人の妻なので夫の国がどんなものか興味津々。
チャンスがあったら中国って一度どんなものか知りたい、じっくり生活したい、中国語も勉強したいって結婚以来ずーーーっと本気で思ってましたからね。私にしてみればついにチャンス到来、グッジョブ阿財という気分ですわ。
しかし阿財が中国帰国を希望しても、当時の阿財の会社(中国企業の日本駐在というポスト)の回答は中国の本社へ戻って移籍は「不可」。がっかりした阿財転職を決意。
転職活動で残った2つの会社でどっちにしようか迷ったのですが、結局日系ブラック企業に転職しました。今思えばブラックですけれど、業界的に見てこちらの転職の方がよかったと思います。
当時阿財40歳。ポストは中国駐在で。ほんとね、言いますけれど、中国人が中国駐在のポストを取ると言うのはかなり大変なんです。日系企業って閉鎖的ですし。転職した業界も以前とは違う中、阿財仕事バリバリやって業績出していきました。昇進もしていきました。
そして6年経っての日系企業退社。
ブラックと言えども駐在というポストはおいしい・・・。私も、日本の社会保障の枠(健康保険や年金)から外れること、学費や家賃の補助が0になることには正直思い切りが要りましたが、総合的に考え退社を勧めました。
阿財自身も前職の仕事自体は絶好調で、年齢40後半になっての退社、しかも家族を養う身であるために相当な勇気が要ったと思いますが、最後はやってくれました。
今、私は阿財が退社したことは全く後悔していません。週末を利用して義父のお見舞いに行くなんて前の会社にいたらできないことだと思います。

六斤が日中バイリンガルになった
中国人パパ×日本人ママに産まれた六斤、欲を言えばどっちの言葉のうまくなってもらいたいし、どっちの国にも適応できる人になってもらいたい・・・という願いのもと、幾多の工夫と努力、環境づくりが功を奏し、現在六斤日本語、中国語どちらも問題なく使えるようになりました。読み書きもできてます。
2歳半で中国に渡った六斤、既にこの子の人生の大半は中国での生活です。
私自身はもっと日本だったらこうなのに(空は青いのにとか冬はこんなに寒くないのにとか自然がいっぱいなのにとかね)といろいろ思うところもあるにはありますが(このブログでもガンガン書いてますが)、六斤にとっては祖国ともいえる中国。これからも六斤の前で全否定することはしません。
中国についてどう考えるかの結論は六斤がもう少し大きくなって自分の判断で出せばいいんです。私が中国について不満が出たら、六斤には「こういう事を中国の人は考えるけれど、日本人の私はこう考える。」と言うようにしてます。
こういう取り組みをしていった結果、六斤がどのように日本と中国を見るようになるのかが楽しみなところ。
目下、六斤は中国での生活を楽しんでますが、今年の夏に初めて日本の学校へ入れた時もすぐにお友達もできて楽しそうにやってました。よかったです。

私も中国語の勉強続けてる
今年春節明けてすぐにHSK(漢語水平考試)最高級の6級を受験。中国語の先生も喜ぶ高得点合格達成!

私が中国語の勉強を本格的に始めたきっかけは、中国に引っ越ししたての時から阿財の助けがあてにならなかったという厳しい現実から。
上海の家、御多分に漏れず色々直す必要も出ますし、住んだ最初はネットもろくに使えず。同時に六斤の幼稚園探しも進めなければならない・・・しかし阿財は忙しくて私のフォロー無理。
残業も、休日出勤も出張もわんさかなブラック企業なもので。阿財も転職して数か月ですし気持ちの余裕もありません。
私たちが上海に来て翌日に土曜出社、そして翌週には出張へ行って不在。中国語ができないことで募る不便。何が言ってるかわからんし、自分の言いたいこともちゃんと伝えられないもどかしさ。でもヘルプは望めない・・・。
ぎゃー、ちゃんと中国語ができたらこんな不便しなくていいのに!と。これまでの不勉強を大後悔。これまで中国人と結婚していたのに何やってたんだと。
そして決心して始めた中国語の勉強。紆余曲折ありつつも、自分に適した勉強法にたどりつき、そして今年取ったHSK6級。
これまであまり資格を意識して中国語の勉強をしてこなかったのですが(しかもHSKは正答率6割で合格ラインなので高得点を目指す発想にはなりにくい)、今回努力が試験結果に出て良かったです。
目下、中検準1級を受験しようかどうか考え中。もういっちょいっとくかな?と。笑
今は通常の生活では特に中国語に不自由はない状態になり、中国引っ越し当初に感じていた中国語ができないことによる生活上のストレスはかなーり解消しました。これで大分すっきりできました。
今、HSK最高級を合格した後でも中国語を勉強し続ける最大の理由は、日本に住んだ時に家庭内言語を中国語にするためです。六斤が現地校でがんばって取得した中国語を日本生活で忘却の彼方へ送るのはもったいない。
私たち家族が日本に住んだら今度は私が中国語を話します。なのでもっともっと中国語を勉強しなきゃいけません。まだまだ足りません。笑
そんな話を中国語の先生としていて「でも口語表現ダメダメなんすよね~」と言ったら「確かに足りない」と言って紹介されたのがこの本。
次回日本に帰ったら買う予定。元々中国で発行されているテキストの翻訳ものなので中国アマゾンでもオリジナル版を買えるのですが、<大人の外国語学習には母国語の関与が必要。正しい日本語訳を知りたいし。 あとは中華ドラマ見てオリジナルフレーズ集も作ろうかなー。私の中国語の勉強は続きます。
豆豆が産まれた
2017年春に上海で出産をしました。
これまでの道のりはもうほんと大変で大変で。悲しい事もありました。
ちょろっとブログに書いたりもしていますが、中国生活の期間がほぼこの為に費やされたといって過言でないくらいやりました。できることはやり尽くしました。

豆豆が産まれなくても後悔しないくらいやり切った感があります。こればっかりは自分でもどうしようもできない事柄も絡んでくるので、最後は報われてよかった。とにかく神様ありがとうです。
治療歴トータルで10年はいくと思います。こないだお金のことで阿財とギャーギャーやりましたが、まじでこれをしなければベンツ余裕で買えてるんじゃないですか?ええ、もちろん上海Aナンバーで。
今朝、別件で日本の友人と微信で話していた時に、「阿財から『日本に戻ったら働くんですか?』と聞かれたけれど、『休ませて。私もうこの10年がんばってヘトヘトだから。』って言った」と話したら
友人「治療も仕事のうち!」
って返事が来てじーんときましたね。
日本にいるときは私も仕事フルタイムでやっていて、ここに来てから仕事もやめて治療してずーっと上手くいかず私って一体何なんだろ的な気分になったのも事実ですが。そっか、私、実は家庭経営の実務のトップでした。笑
長い長い冬の時代を経て、先にリンクした上海出発前日に書いたブログの通りに。豆豆の本名は夢のお告げ通り「水調歌頭」から取った名前を名付けました。義父的には「阿財家に代々伝わる字(澤)を使わないなんて!」と驚愕ものでしたが。

先週六斤の学校の授業でこの古詩「水調歌頭」を学んできたのでわぁお、すごい偶然・・・と一人感動してました。
豆豆の名づけの元になった、6年前の上海出発前に在日本中国領事館で見た、そして中国生活7年目に入る節目に六斤が学校で勉強している・・・
人有悲歓離合
(人には悲しみ、歓び、別れ、出会いがある)月有陰晴圓缺
(月には光と影の満ち欠けがある)此事古難全
(これは昔からどうしようもないことなのだ)但愿人長久
(だからせめてお互い長生きしよう)千里共嬋娟
(千里離れても、同じこの美しい月を眺めよう)
六斤に「この詩は豆豆の名前の詩なんだよ!」と言ったものの、厳しいお勉強社会に生きる六斤には詩を鑑賞する余裕はなく、あまり興味持ってもらえなかったのが残念でしたが 笑
上の引用はこの詩の一部なのですが、この部分よく口ずさんでます。
中国で出会えた素敵な友人たち
留学時代もそうでしたが、海外で知り合う日本人とは特別な絆ができます。お互い日本とは環境が違う中がんばっている同志みたいな感じで。助け合う気持ちも強いです。
私は阿財の赴任について来たので同様に駐在に同行してきた日本人の方とも知り合いましたし、同時に中国人の妻でもあるので広州や上海で同じ国際結婚している日本人の方ともたくさん知り合いました。
海外暮らしの宿命みたいなもので、出会いも別れも多かったです。住んでいる場所が変わっても仲良くしてくれる人もいてありがたいです。
阿信ブログも色々あった
私がブログを書いたのは9年前。長さだけはいっちょ前。笑 私がブログを書き始めた当時はブログ以外のSNSがそれほど発達しておらず、書けばコメントもわんさか来るし、ブログ内外の交流も盛んででしたが今はインスタやツイッター、フェースブックが主流になっちゃいましたね。
でも中国では日本人が多く使う主なSNSが軒並みブロックされている事もあり、日本と中国、どちらにも住んでいる人が気軽にアクセスできるプラットフォームと言ったら結局こうしたブログになっちゃうんですよね。
中国からですと、VPNを使えば日本の友人とは上の3つのSNSで交流すれば十分ですけれど、私はしっかり文章を書くこのブログスタイルに慣れてしまったことや、オープンになっている場で日中国際結婚や海外育児、その他私が直面しているびっくりな事、知った方がいい情報など発信したいのでこれでやっています。
実はブログで苦い経験をした
昨年の今頃、思い立って自己アカウントでブログ開設までして^^;サーバーやドメイン取得は無料ではないのでそれの足しになればと広告入れたら、秋頃からネット攻撃受けて、やっと審査が通った難関の広告撤去という憂き目に遭ったりもしましたが 笑。
一時期もうほんとがっかりして「ブログやめたい」とか思いましたが、「私は広告収入が入らないからブログを書かないのか?」と自問自答して、私がブログを書く理由はそこじゃない、と思ってやっぱり続けることにしました。お金がかかる趣味という事にします。
ブロ友(というかその前からブログ以外で知り合いだった。私、阿信だよんとカミングアウトしたらえらく驚かれた)を誘って・・・いやいや引きずり込んでこっち側に来させちゃいましたが。私のサーバー最大50個ブログ作れるので新サイト計画中です。←懲りてない
最近はブログ経由でラジオ出演依頼あったりでブログをしていて楽しい経験できてます。
このブログを見てくれている読者さん、いつもありがとうございます。まだまだ続く阿信ブログをよろしくお願いします。
まとめ
というわけで阿信中国生活6年間を振り返りました。色々ありましたが、阿新家のこの6年間、いい方向に向かっている感じです。
我が家一家、目指すは「家族全員日中両国対応」です。明日日本に住むことになっても困らない家族であることが私の目標。まだまだ私には中国語の勉強が必要です。豆豆は六斤方式で3歳になったら現地幼稚園へ入れ、中国語を身につけてもらいます。それまでは私が豆豆をもっぱら見てますが声かけのメイン言語は日本語です。
まぁ、これだけ異文化で暮らせて行けているんだから日本と中国に限らず他の国でもやっていけそうな気もしてます。最近阿財も英語勉強してるし、六斤も英語好きだし。ホラ、私ってば楽観的・・・笑
ではでは今後ともよろしくです。
もうそんなに経ちますか。
私達が香港行ってもう4年目ですものね。
幼稚園ではお世話になりましたが
うちの娘は日本人学校に行ってしまったので
普通話も英語も・・・。
昨日は丸暗記の広東語暗唱大会に出ましたが
練習したお陰で広東語母語の香港人と
ほぼ同じように出来たのは良かったです。
それ以外の広東語はマダマダですが。